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Kameno`s Digital Photolog by Tetsuya Kameno is licensed under a Creative Commons
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貞昌院歴史カフェ講座 が開催されました。
テーマ 義烈空挺隊と特殊攻撃隊
ナビゲータ 元義烈空挺隊飛行第60戦隊支援隊員 Tさん
会場 貞昌院
Tさんの略歴
昭和17年4月 陸軍少年飛行兵学校に入校
昭和18年3月 陸軍少年飛行兵学校を卒業
昭和18年4月 水戸陸軍航空通信学校に入校
昭和19年7月 水戸陸軍航空通信学校を卒業
昭和19年7月 航空通信学校菊池教育隊に配属、少飛16期の班附
昭和19年10月 飛行第60戦隊に転属、埼玉の児玉飛行場へ。
昭和19年12月 フイリピンへの空輸作戦に従事。
フイリピン島クラーク飛行場に着陸時、グラマンから攻撃を受け墜落。他の搭乗者は全員死亡。
野戦病院に収容、後続の連絡機で高崎陸軍病院に収容。
昭和20年2月 飛行第60戦隊、熊本の健軍飛行場に異動。
昭和20年2月~ 健軍飛行場から沖縄の連合軍への反復攻撃30回以上。
昭和20年5月 義烈空挺隊と共に沖縄へ。
昭和20年8月 P38の攻撃で被弾し海に不時着。負傷し入院。
昭和20年8月15日 熊本陸軍病院で終戦を迎える
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熊本市健軍飛行場付近 1947年3月13日 米軍により撮影
左上に熊本城。熊本市街は焼野原である。
右上が健軍飛行場。赤土を固めた滑走路であった(現在の熊本県立大学周辺)
右中、飛行場の南には三菱の軍需工場があった(現在は自衛隊駐屯地)
![]()
左 飛行第60戦隊時代のTさん
右 Tさんが搭乗されていた飛龍。写真の中にTさんが写っています。
(写真はTさんにご提供いただきました)
今回の講座は、昨年秋に貞昌院研修旅行として知覧を訪問したことがきっかけとなりました。
これまでTさんは、戦時中第60戦隊での経験を、両親や兄弟にすら語ったことがなかったそうです。
つい最近、知覧の知覧特攻平和会館で体験を語る機会があったそうですが、今回の貞昌院での講座はそれ以外での初めての機会となりました。
ですから、このブログでは、敢えて本名ではなく、Tさんという表現にさせていただいております。
また、今回の講座では宮崎飛行場で海軍特攻隊に関り、航路決定や気象観測に携わりながら1000人もの特攻隊員を送り出してこられたSさんもお見えになり、陸軍特攻隊、海軍特攻隊それぞれの生の声を伺うことができました。
貞昌院の本堂には永谷から戦地に赴任された方々の遺影が掲げられています。
講座の前に、Tさんは一つひとつの遺影に対し深々と頭を下げておられました。
「戦争はもう続けるべきではない」
「戦争を二度と繰り返してはしてはいけない」
これは歴史講座に元義烈空挺隊飛行第60戦隊支援隊員 Tさんが最初に語られた言葉です。
出撃していった特攻隊員・空挺隊員たちも同様の言葉を残していったそうです。
太平洋戦争における特別攻撃隊は、戦後の日本では戦争の悲劇の代名詞として語られがちです。
しかし、東南アジアにおいてはもっと現実的に物事を捉えられていたりしてします。
ベトナム (フランスによる植民地化)フランス領インドシナ
フィリピン (アメリカによる植民地化)
マレーシア(イギリス領による植民地化)
インドネシア(オランダによる植民地化)
ビルマ (イギリス領インド→イギリス自治領)
東南アジア、特にフィリピンは日本と南方をつなぐ戦略的な要所であり、連合軍は大艦隊をもって獲得に動きました。
昭和19年10月の台湾沖航空戦敗北により、日本軍の第一航空艦隊の戦力は昭和19年当時は零戦僅か40機程度となり、通常の作戦では歯が立たないことは明白でした。
大西瀧治郎海軍中将は圧倒的航空戦力を一時的でも麻痺させるために零戦に250キロ爆弾を抱え、体当たり攻撃を部下たちに提案。
この提案に全員が両手を挙げて賛成したとされています。
連合軍を本土に迎えた場合、アフリカやアジア諸国のように日本は植民地化され、日本民族再興の機会は失われてしまうだろう。
しかし、本土上陸を阻止し、少しでも相手に反撃を行うことができればその分有利な講和ができるだろう。
このため、特攻を行ってでも祖国を護らなければばならない。
日本民族が身をもって祖国を護ったという歴史が語りつがれる限り、自分の死は無駄にはならないだろう・・・
そして神風特別攻撃隊が編成され、10月21日には第一陣が出撃していきました。
イッテマイリマス ノチノニホンニエイコウアレ
特別攻撃隊の強行攻撃は、少なからず後に計画されていた沖縄から九州への上陸作戦(オリンピック作戦)と、その後に行われる本土上陸作戦を躊躇させた要因になったということも指摘されます。
本土決戦が行われた場合、日本軍の民間人を含む強固な反撃により、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想されたからです。
また、もし本土決戦が実行されていれば、日本にとって分割統治計画が現実の物となり、東西ドイツのように日本が分断国家となっていたのではないかとも言われています。
少なくとも現在の日本の姿は無いはずです。
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義烈空挺隊出撃前、隊員それぞれの故郷に向かって遥拝。写真の後ろにはTさんの搭乗された飛龍
(昭和20年5月24日 熊本・健軍飛行場にて Tさん提供)
世界中のあらゆる人は、幸せな平和の日々を送ることを願っています。
人類共通の願いであるといえます。
けれども、残念なことにその平和な世界を願いながらも、一人ひとりが正当を主張し、武力を持ってぶつかり合うという現実があります。
その時、お年寄りや子どもたちのような弱い多くの人々が犠牲になります。
友を失い、愛する人を失って、かけがえの無い人間の一生が無惨に踏みにじられてしまいます。
後ニ続ク者ヲ信ジ日本民族守護の礎石トナリシ将兵ノ霊ニ 我等何ヲモッテ応エントスルヤ
(摩文仁の丘 義烈空挺隊慰霊塔碑文)
折りしも今日は成人の日となりました。
戦争中多くの同じような年代の方々が故郷や家族のために命を張って散っていったという事実も語りついでいって欲しいものです。
貞昌院境内には平和を願う火が灯されました。
右写真は貞昌院境内の平和観音です。
出撃前の夜、皆で歌ったのは軍歌ではなく、「兎追いし かの山・・・」
故郷(ふるさと)だったそうです。
「志をはたして いつの日にか帰らん」
特別攻撃隊は敵艦隊に突撃すること、義烈空挺隊は占領されていた空港に強行着陸することを目的としていましたから、彼らには目的を果たしても帰還して着陸する空港などはありません。
けれども、参道の灯りは、まるで、ありえないはずの空港の照明灯のようにも見えました。
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>けれども、参道の灯りは、まるで、ありえないはずの空港の照明灯のようにも見えました。
最後の一文が利きました。
老師の慟哭のようにも聞こえました。
Name うさじい : January 12, 2009 04:31 PM
うさじい様
この灯をたよりに戦争で命を落された「みたま」たちもきっと集まっていらしたのではないでしょうか、そんな気がしました。
戦争をむやみに美化してはなりませんが、史実を客観的に受け止め、語り継いでいく姿勢は大切だと思います。
Name kameno : January 12, 2009 11:52 PM